※この記事にはジェノサイド(大量虐殺)についての記述があります
Mwiriwe (ミリウェ)こんにちは。
ルワンダ在住の森本です。
ルワンダでは4月7日から“kwibuka(クイブカ)”というジェノサイド追悼期間に入りました。
“Kwibuka”とは“remember”という意味で、そこには“あの時の悲劇を忘れない・繰り返さない”というルワンダの人たちの強い思いが込められています。
『4月7日』
1994年のこの日、当時の大統領ジュベナル・ハビャリマナ氏が乗った飛行機が撃墜され、100日間に100万人以上(諸説あり)が殺されたといわれるジェノサイド(大量虐殺)が始まりました。
今回はこのルワンダで起こったジェノサイドについてお話をしたいと思います。
皆さんは、なぜアフリカ諸国の国境は直線が多いかご存じでしょうか。
ヨーロッパ諸国がアフリカの自国統治領を広げる時に、元々そこに住んでいた人たちの文化や民族を考慮せず自国の都合に合わせて分割をしたためです。
このヨーロッパ諸国の統治が以降アフリカ諸国で争いを引き起こす要因となり、ルワンダでもまた大きな悲劇を生みました。
植民地時代前のルワンダはツチ・フツ・トゥワといった民族に分かれておらず、最高権力者である国王(ツチ系)の一族が牛飼いの長、地主の長、軍の長を統治し、王が国を治める中央集権国家でした。
ですが、ベルギーの統治下にあった1900年代初頭。
分割統治をするため明確な民族分けが必要となり、各個人がどの民族であるかを明記した身分証明証の携帯が義務付けられるようになりました。
この民族を分ける基準は何だったかというと、牛の保有数や、顔の形・鼻の高さ・額の広さ・肌の色といった容姿など。
例えば、牛を10頭以上保有し鼻が高く肌の色が薄い人(どちらかと言えばヨーロッパ人に容姿が近い)が“ツチ族”その逆が“フツ族”といったように分けられていきました。
ヨーロッパ人に似ているとされたツチ族は、官僚への登用など政治的な特権の付与、教育面など様々な優遇など受けるようになり、ツチ族とフツ族の間には大きな社会的・経済的格差が生まれるようになりました。
この格差は優遇されるツチ族への憎悪を生み出し、少しずつ人々の心をも蝕んでいきました。
1959年、国王が死去し長く続いたルワンダ王政が終わりを告げました。
それをきっかけにツチ族に対する不満が爆発し、最初のツチ族に対するジェノサイドが起こりました。
この時も多くのツチ族の人々が殺され国外に逃げました。
そして数十年後、国外に逃れた彼らによって迫害を受け殺されるツチ族を守るため、そして独裁政治と戦うためRPF(Rwanda Patriotic Front:ルワンダ愛国前線)が結成されます。
現ルワンダ大統領ポール・カガメ氏もこのRPFのリーダーとして戦っていた一人でした。
王政崩壊後まもなくしてベルギーから独立を果たしたルワンダ。
独立後は以前と打って変わりフツ族が政権を握るようになり、政府によるツチ族の迫害とジェノサイドが激しさを増していきました。
1990年代に入り準備を整えたRPFによる武力闘争が開始されました。
その後1993年まで闘争が続いたのち、RPFと政府は停戦のためアル―シャ和平協定を締結しました。
この和平協定は表面上だけのもので、これから始まるジェノサイドを食い止めることは出来ませんでした。
ルワンダ政府は水面下で大量の武器の手配やインテラハムウェと呼ばれる民兵のトレーニングを開始。
そしてラジオをはじめとしたメディアでは“ゴキブリ(ツチ族)を排除せよ”などツチ族に対するヘイトスピーチやプロパガンダが頻繁に流され、過激派フツ族をはじめとした一般市民に対して虐殺への加担を煽りました。
このメディア・プロパガンダの影響力は大きく、その結果多くの一般市民の手によってツチ族や穏健フツ族の命が奪われました。
入念にジェノサイドの準備がなされ、国中が不穏な空気に包まれるなかとうとうその日がやってきてしまいました。
『4月7日』
ハビャリマナ大統領の乗った飛行機の撃墜から数十分後にはルワンダ国内の道路は全て封鎖され、インテラハムウェや過激派フツ族そして一般市民がマチェーテや斧を手に持ち、ツチ族の根絶を掲げ大量虐殺が始まりました。
道路、自宅、森などルワンダ全土あらゆるところが虐殺の現場となりました。
なかでも教会や学校では一度に多くの人を殺すことができるということで、度々虐殺の場所として利用されました。
ルワンダに虐殺の現場となった教会や学校は現在、亡くなった人の遺骨や服などの遺留品とともに、当時の悲惨な状況を語るメモリアルとして大切に保存されています。
『Nyamata Churchニャマタ教会』
ここでは4,000人以上の人々が命を奪われました。
司教に「教会なら必ず神が守ってくれるから安全だ」と言われ、その言葉を信じて藁にもすがる思いで逃げてきた沢山の人たち。
しかしその言葉は決して救いの言葉ではなく“一人でも多くのツチ族を殺すため”人々を教会におびき寄せるための言葉でしかありませんでした。
ここに神は存在しませんでした。
真夜中、真っ暗な教会の大聖堂に手りゅう弾が投げ込まれ固く閉ざされたドアは壊され、インテラハムウェをはじめとした虐殺者達が一気に押し入りました。
そして確実に殺すためゆっくり時間を掛けて虐殺が行われていきました。
彼らは逃げることが出来ないように人々の手足をマチェーテや斧で切り落とし、命乞いをする者にも躊躇することなく刃物を振りかざしました。
幼い子ども達にも容赦はなく、石壁に叩きつけられるなどして殺しました。
またこのジェノサイドでは“武器”として組織的に強姦が行われました。
そのため多くの女性がHIVに感染し今もなお病気と闘っています。
人々の大切なものを奪い、大きな傷あとを残したジェノサイド。
新政権発足とともに身分証明証は廃止され、ルワンダからはツチ・フツ・トゥワといった民族はなくなり『ルワンダ人』と言うようになりました。
そして多くの傷を抱えながらも、『同じ悲劇を二度と繰り返さないため』彼らはお互いを理解しようと手を取り合い、しっかりと前を向いて歩いています。
「もし隣人を理解していれば、このジェノサイドは起こらなかったかもしれない。」
と、ある人が言っています。
“お互いを否定するのではなく理解する”ということは決して簡単なことではありません。
ですが“相手を理解する努力を続ける”ということは大切なのかもしれません。